アゴを引け! 胸を張れ!?
画的に判り易い様に極端にやってますw
良し悪しの判断は置いといて、
頭の天辺から足の裏、爪先まで、
身体の内部・表面に感じる違いは何か?
画像は立位(動きが無い状態)ですが、
裸足ランニング・ウォーキングであれば、
足裏から聞こえるのはどんな声か?
地面がガレ場なら?
坂道(上り下り)なら?
そんなこんなに少しだけ気づいた夜でした。
足裏の痛みを減らすには?
実用的なスタイルでは無いが、足裏の痛みが減少した事に気づきハッとした。
何が違うのか解らないが、痛み具合は違う。
何度も両スタイルで歩行し、違いを探った。
その結果、動作その物の違いについて把握はできたものの、当時の身体の使い方や知識では実用的なスタイルに取り込む事ができなかった。
ガレた路面をラン・ウォークする際に感じる足裏の痛み。
裸足の経験が少ない頃の痛みは大きい。
自分も通った道。
そんな頃、偶然気づいた歩行スタイル。
気づいたのと同じ場所(当時は痛かった)で改めて動画撮影してみた。
痛かった当時の歩行スタイル(に近づけたつもり)との比較動画。
腕を後頭部で軽く組んでいるのが気づいたスタイル。
※腕を後頭部で軽く組むと、肩が「ゼロ・ポジション」とか「ハンモック・ポジション」と呼ばれる状態に近くなる。
当時の自分は肩こりが酷く、肩周りを楽にするためにこういうスタイルで歩いたのが気付きの切っ掛けになったのかもしれない。
何が違うのか解らないが、痛み具合は違う。
何度も両スタイルで歩行し、違いを探った。
その結果、動作その物の違いについて把握はできたものの、当時の身体の使い方や知識では実用的なスタイルに取り込む事ができなかった。
そんな事を思い出した…
裸足の経験が少ない頃の痛みは大きい。
自分も通った道。
そんな頃、偶然気づいた歩行スタイル。
気づいたのと同じ場所(当時は痛かった)で改めて動画撮影してみた。
痛かった当時の歩行スタイル(に近づけたつもり)との比較動画。
腕を後頭部で軽く組んでいるのが気づいたスタイル。
※腕を後頭部で軽く組むと、肩が「ゼロ・ポジション」とか「ハンモック・ポジション」と呼ばれる状態に近くなる。
当時の自分は肩こりが酷く、肩周りを楽にするためにこういうスタイルで歩いたのが気付きの切っ掛けになったのかもしれない。
背骨の記憶 平地の罠
最近は出来る限り平地を脱出して坂道(舗装・未舗装・トレイル)でラン・ウォークを行っている。
平地の罠を避けるためだ。
第1の罠「記憶喪失」
坂道を進み始め、勾配が変化すると、背骨(身体)は気持ち良さを求めて背骨のカーブを坂道に適応させようとする(この変化を無意識的あるいは意識的に受け容れる人と拒む人がいる)。
坂道やトレイルの移動後に平地の移動が楽に感じたり、上達した様に感じるのは、背骨(身体)が坂道に適応している状態にあるからではないだろうか。
しかし、平地に戻ると、この「上達した」感は自分の気づかない間に消失している。
背骨(身体)が坂道の記憶を喪失したとも言えないだろうか(喪失している事にも気づいていない事が殆ど)。
そして再び坂道に行くと思い出す…
第2の罠「制御系混乱」
そもそも平地とは何なのか?
普段平地と呼んでいる所は、実際には僅かながら前後左右方向に勾配がついている事がほとんどなのではないか?
限りなく真の平地に近い場所は体育館や競技場など、非常に限られているのではないか?
平地であるという先入観、平地っぽいという視覚情報に対し、地面から伝わってくる真の情報(感じ取れるか、感じ取れないかは別として)が平地ではなかった場合、身体に何が起こるかは容易に想像がつくはずだ。
違いが僅かであるが故に気づき辛く、違いが僅かであるが故に身体への影響もユックリと進行するのではないか。
真の平地など存在しないと思った方が良いのではないか。
ララムリの民は坂道で走り、平地で歩くと言われるが、このような理由を潜在的に感じ取っているのではないかと思ったりもする。
平地の罠を避けるためだ。
第1の罠「記憶喪失」
坂道を進み始め、勾配が変化すると、背骨(身体)は気持ち良さを求めて背骨のカーブを坂道に適応させようとする(この変化を無意識的あるいは意識的に受け容れる人と拒む人がいる)。
坂道やトレイルの移動後に平地の移動が楽に感じたり、上達した様に感じるのは、背骨(身体)が坂道に適応している状態にあるからではないだろうか。
しかし、平地に戻ると、この「上達した」感は自分の気づかない間に消失している。
背骨(身体)が坂道の記憶を喪失したとも言えないだろうか(喪失している事にも気づいていない事が殆ど)。
そして再び坂道に行くと思い出す…
第2の罠「制御系混乱」
そもそも平地とは何なのか?
普段平地と呼んでいる所は、実際には僅かながら前後左右方向に勾配がついている事がほとんどなのではないか?
限りなく真の平地に近い場所は体育館や競技場など、非常に限られているのではないか?
平地であるという先入観、平地っぽいという視覚情報に対し、地面から伝わってくる真の情報(感じ取れるか、感じ取れないかは別として)が平地ではなかった場合、身体に何が起こるかは容易に想像がつくはずだ。
違いが僅かであるが故に気づき辛く、違いが僅かであるが故に身体への影響もユックリと進行するのではないか。
真の平地など存在しないと思った方が良いのではないか。
ララムリの民は坂道で走り、平地で歩くと言われるが、このような理由を潜在的に感じ取っているのではないかと思ったりもする。
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